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2023.09.05Vol.606 棚卸作業をしたからこそ見えてきたこと

 連絡からです。塾の休みは9月18日(月)からの1週間ですが、ブログは1週間前倒しで来週を休みとします。来週は月間報告に追われていて、逆に再来週は授業も無いため時間的にも精神的にも余裕があるはずだからです。その19日(火)、朝から関西でゴルフをし、その夜に一人で、車と共に大阪南港からフェリーに乗って新門司港に向かうため、前々日の日曜から手を付けて前日の時点で9割方仕上げておかなければ当日はかなり追い込まれてしまいそうです。しかも、電話で確認したところ、乗船中に1回30分で3回Wifiを使える権利があるとのことなのですが、つながらないと思っておいてください、と言われてしまいました。16日(土)の授業が終わった時点で頭も心も揃って完全に休暇モードに入らないことを願うばかりです。その旅については改めてどこかで報告したいのですが、20日(水)の夜に、初めて一人で新幹線に乗り、新大阪からやってくる5年生の三男を小倉でピックアップする予定になっています。国内であり、たかだか2時間程度なのですが、「ちゃんと降りられるだろうか」「ちゃんとお父さんに会えるだろうか」というどきどき感を味わうことなどを含めて良い経験になるはずです。そのような特別な何かがきっかけになることはあっても、たった一つのことで子供が大きく成長するわけではありません。非日常に期待し過ぎず、日頃から少しずつ蓄積していってあげることが大事だと考えながら子育てをしています。また、日常の積み重ねが無ければ、特別な経験もその場限りで、その後に活きないはずです。宗教改革に関して、ルターが一人で大きなことを成し遂げたのではなく、ガスが充満した部屋で、たまたまマッチを擦ったのが彼だった、というたとえ話を聞いたことがあるのですが、それに倣えば、良い意味での爆発が起きるように日々ガスを子供の中に溜めていってあげるのが親の役割かもしれません。分かったようなことを書いて来たものの、実際は、日々の雑事に追われてまったく実践できてはおりません。
 さて、先週、「次回、その彼女が果たしてくれた役割について述べ、このシリーズを終わりにする予定である」という一文で締めた。今回は、その彼女、杉崎さんが主役である。ブログで名前を出すのはおそらく初めてのはずである。勤めていた国語専門塾を辞めると決め、そのことを最初に伝えたのがその杉崎さんで、そのとき「松蔭さんが辞めるんだったら、私も辞めようかな」と漏らした。それからしばらくして、「関西でここと同じような国語塾をやりたいけど、国語のこと全然分かってへんから助けてくれへんかな」とお願いをした。記憶があいまいなのだが、大体こんな流れであったはずである。当時の塾の主宰者は私が引き抜いたと怒っていたようだが、事実はそうではない。彼女の退職の意思が先にあったのだ。それだけではなく、縁もゆかりもない西宮に単身来るという大きな決断があって実現したことであった。
 2人での船出となった志高塾。総論賛成各論反対といった感じで、目指している方向は同じでも、方法論などで意見が合わずに衝突することはそれなりにあった。それには2つの理由があった。その塾のやり方をそのまま真似るのではなく、より良い教育をするために自分たちのやり方を模索していたこと。もし、そのまま踏襲するだけであれば、「これはあんな風に教えてたんちゃう」と二人で記憶を辿る作業をするだけで済んだ。そしてもう1つが、彼女の教育に対しての情熱が強くて生徒に対しての愛情が深かったこと。もし、生半可な気持ちで意見を言ってこられたのであれば、「基本的な考え方が間違えている」と突っぱねただろう。ぶつかった際には、「何で分からへんねん」となりもしたが、今思えば、常に前向きな議論はできていたのだろう。私は自分の考えを簡単には曲げないので、そのときに「どうやって説明すれば杉崎さんは理解してくれるのだろうか」と考えたことが、その後に役立っている。たとえば、控えめに表現しても、彼女は受験に対して、読解問題に対してポジティブでは無かった。要はとことん作文をやりたかったのだ。私は、実際に中学受験をする生徒が多く、中学受験はしないにしても、ほとんどの生徒が将来的に避けて通れない道なので、読解問題から得られるものを多くするためにどうすれば良いのか、ということを考え続けた。その結果、「読解問題というのは、『これを読んだとき、世の中の8割の人がどう考えると思いますか』ということを問うているのであって、その訓練をすることは客観的な思考を身に付けることに繋がり、その力は社会に出てからも役に立つ」という結論に達した。そこまでに3~5年ほど要した気がする。
 一緒に関西に来て欲しいと最初にお願いした時点で、「2年経ったら(地元の)横浜に帰す」という約束をしていた。そのタイミングで2校目を横浜市の中で一番北に位置する青葉区に「たまプラーザ校」を出す予定にしていたからだ。もちろん、そのような飛び地での出店が難しいのは百も承知の上であった。結果的に、彼女無しでは西宮北口校は回る状態になっていなかったので、1年遅れで3年後にそれは実現した。そして、2010年2月からの3年間、彼女は一人で教室を切り盛りしてくれた。教室を閉じる1年以上前には二人で話し合ってそのことを決め、その後は新規の生徒の募集を行わなかったし、生徒の親御様にもそのことをアナウンスした。そのことに関して、赤字だからといってすぐに教室を閉めるのではなく、入塾してくれた生徒に最低限できることをやろう、というのが自分の中にあった。利益を優先しなかった自分の判断には胸を張って間違いでは無かったと言えるのだが、それも彼女が途中で投げ出さなかったから実現できたことである。と言うのも、特に閉めることを決める前ぐらいから、我々のコミュニケーションがうまく行かなくなっていたからだ。距離が離れた分を補うだけのことを私ができていなかったのが一番の要因である。もちろん、そんなことは今になったから思えることであって、そのときもやはり、「何で分からへんねん」であった。私に不満があっても、生徒に対しては愛情を持ってきちんと授業をしてくれるという安心感、信頼感はずっと持ち続けていた。
 Vol.603「国語塾を経営するということ」で「一つのきっかけ、一つの理由、一つの目的。Vol.600から振り返っているのにはその3つが関係している。」と述べた。最後に残った「一つの目的」。それは、杉崎さんの功績をきちんと振り返ることであった。自分の中だけでそっとその作業をすることもできないわけではないが、こうやって文章という形にしたことで、「ああいうこともしてくれた」、「こんなこともしてくれていた」というのが見えて来た。たとえば、上で述べた、「読解問題というのは、『これを読んだとき、・・・、というのも自ら考え続けて出した結論だと思い込んでいたが、杉崎さんを説得するためだったということに気づけた。彼女のきちんとした仕事の仕方、生徒との向き合い方がなければ、間違いなく私は説得しようなどとはならなかった。間接的ではあるが、これもやはり彼女がしてくれたことの1つである。
 棚卸作業。ほぼ終わりはしたもののまだ高いところや奥の方に見落としているものがあるはずである。もう少しだけ、自分の中だけでそっとその作業を続けようと思う。

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