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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.09.08vol.33 古文の謎(竹内)

 「入試科目に古文は必要なのか」「これからの時代に古文を学ぶ必要はあるのか」ということがよく取り沙汰される。あからさまに不満を口にする生徒がいるわけではないが、「古文が好き」だという生徒ともなかなか出くわさない。好きである必要はないのでそれは大した問題ではないのだが。「やらないといけないからやる」の域を越えないことを実感しつつも、個人的には現代人は古文と付き合い続けるべきだと思っている。しかし、それがなぜかと問われるとまだ十分な答えを見つけられていない。ずっと考えている。子どもに勉強を促す際の声掛けの一つとしてよくあるのが、「将来の役に立つから」である。古文ほどそれがしっくりこないものはない。そもそも、ほかの科目であっても「役に立つ/立たない」という見方は結局好き嫌いの話へと発展していってしまう。理由が先にあるのではなく、それを探す、どうやって役に立たせようかと思案する方が、自分の中に取り込まれることは多くなる。
 つい最近、『源氏物語』を読み始めた。「いづれの御時にか、女御、更衣、あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」が冒頭の一文である。今も学校では暗記させられるのだろうか。こう書くとまるで原文にチャレンジしているようなので早めに白状しておくと、何年経っても進まなくては困るので、もちろん現代語訳されたものを選んでいる。各出版社が文学全集を様々に出しているが、河出書房からの「日本文学全集」シリーズ全30巻が現時点ではおそらく最新である。ハードカバーの色合いが鮮やかで、「いつか全部買い揃えたら本棚がカラフルになって良いな」と思い、手始めに購入したのがそれだったのだが、上・中・下巻からなるその圧倒的な長さのために「そのうち、そのうち」と後回しにしているうちに4年は過ぎていた。今年の大河ドラマでは作者の紫式部をモデルにしていることもあり、私の母親が興味を持って挑戦したのが春先。祖父の介護のために実家で過ごしておりそれなりに時間があったので、あっという間に読破したとのことだった。ちなみに母が持っていたのは田辺聖子による『新源氏物語』。私のは訳者が角田光代である。そういえばそのことも買ってみようという決意に至ったきっかけの一つだった。『さがしもの』という短編集があるのだが、これが氏との出会い。各話が良かったのはさることながら、あとがきを通じて好きな作家の一人になった。
 9月に入ってもまだ暑さは引かないが、それでも生ぬるかった吹く風がいつの間にか心地よいものになってきて、8月も半ばごろからはトンボが姿を見せ始めた。夏至を過ぎてわずかではあるが日照もこれから短くなっていくことがうっすらと感じられるようになってきた。こういう季節の変化や風景を、古文、特に俳句や和歌は逃さずその中に閉じ込める。そう考えると、過去を知れるという点では歴史と通ずる部分があるが、歴史は知識を与えてくれるのに対して、古文は感性を磨いてくれるものだといえるのかもしれない。日本最古の歌集である万葉集には、約4500首が収録されている。天皇のような身分の高い人物だけではなく、農民のような一般市民の和歌もたくさんある。今、巷にあふれるさまざまな歌に自分を重ねたり共感したりするのと同じように、昔の人々の言葉によって紡がれる思いが、今と変わらない新鮮さを感じるものであることは、不思議で興味深いことだ。
 この夏休み、公立中学に通っている生徒の何人かと古典の勉強を進めた。文法事項を押さえて、それが実際の文章にどのように用いられているかを確かめながら、一緒に内容を咀嚼していった。学校によるのかもしれないが、中3の生徒にどのようなことを習っているか尋ねたところ、まだ本格的には文法を教わっていないとのことだった。古文にかけている時間自体がそこまで多くないようである。一つ一つの設問に対して解答できることを目指すならば、助動詞やら係り結びやらをある程度覚えていれば事足りるのであろうが、それをもとにして文章全体の理解を深められるようにするならば覚えることにもっと時間を割く必要がある。知識はあくまでも道具として使えるようにしてあげるべきである。
 世界中で人気を博している『ハリー・ポッター』シリーズの日本語訳に対しては、いくつかの誤りが指摘されている。原著を読みこなせるレベルにはないのでそれに関して言及できないが、和訳であっても現代語訳であっても、直訳だけでは正しくとらえられず、文化や時代的背景も多分に考慮しなければならない。これは実は我々が教室で子どもたちに求めている「言い換え」とも通底している。ある言葉を別の言葉に言い換える時、文脈の中での意味を掴まなければならないし、反対にそれが持つ絶対的な意味を無視してはいけないこともある。訳者が違えば表現が異なるように、状況によって多少は絞られるにせよ、どの言葉を選ぶのかは本人次第である。読むという営みの本質は、自分が理解できることを明らかにすることにある。そうやって格闘していく相手として、本当は古文は打ってつけなのではないか。知らない、分からない、難しいからこそ、少しずつかみ砕いて、見えてくるものがあった時にものすごく気持ちがいい。

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