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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.08.16Vol.31 知らない舞台で踊る(三浦)

 一年ほど前、ボイストレーニングに通っていた時期がある。通っていたといっても隔週、かつ興味本位程度だったので、実力として変わったかどうかは定かではない。それでも、いかに自分が「自分の身体」を理解していないかは、確かにしみじみ痛感できた。
 競技スポーツをしてこなかった人生で、水泳や体操、空手などの習い事も、続けたとしても小学校前半までだった。運動が嫌いという訳ではないが、それほど熱心に打ち込む経験はなかった。だからこそ生徒から運動部の活動について聞くたび、実体のない薄ぼんやりとした「憧れの青春」を感じるのだが、それはさておき。
 スポーツをしている人との壁を感じる機会は多々あるが、そのうちのひとつに、「自分の身体」を顧みるかどうか、というのがある。ここでボイストレーニングの話に戻る。通っていた教室は講師を選ぶ一対一の進め方をしており、私がお願いした講師は座学から始めてくれるタイプだった。人によってはとにかく実践を求めるのかもしれないが、私にとってはちょうど大学時代にテキストで学んでいた日本語学と重なる部分もあり、その記憶を蘇らせながら面白く進めていた。発声に使う筋肉、骨、子音ごとの声の出る仕組み、音の高低を調整するにはどうしているのか…そういった、日々無意識に話したり歌ったりしているだけでは全く意識の向かない部分について、ひとつひとつ考えながら声を出すのが楽しかった。
 そんなある日、「今日は声があんまり出ていないね」と指摘された。自分でもあまり気づかない程度だったのだが、言われるがまま少し背中と腰のストレッチをすると、驚くほど声の出が良くなった。喉でもなんでもなく、背中と腰である。「声を出す」というたったそれだけのことでも、全身が複雑に作用しているのだと改めて気づかされた。時折行く整骨院でもそうで、腕を上げる動作ひとつとっても、「もっと肩から意識して上げないと」「肩甲骨のあたりに気を付けて」と指導されながら伸ばしている。
 それを考えると、どうだろう。スポーツ観戦にもともとあまり興味がない方ではあるのだが、ここ最近は眺めながら、「どうやって体を動かせばいいか、きちんとわかっているんだろうな」という感動が先にこみ上げてくる。それは単に練習を積んできたからだけでなく、自身の身体を顧みながら、その筋肉ひとつひとつに意識を向けて調節を繰り返してきたからなのだろう。
 スポーツということで、もうひとつ。以前、池田潔氏の『自由と規律』を読了した。戦後に出版された本で、著者のイギリスでの学生生活について、それも特にいわゆる「パブリック・スクール」について筆者自身の経験を通して述べられているものであった。パブリック・スクールでは春夏秋冬を通し、とにかく団体スポーツに熱心であった、と述懐している。イギリス人の気風に「忠誠心(loyalty)」を見ながら、こう述べている。
「これ(スポーツ)によって彼等は、共同体にあって、全体の利益のため自我を没し、勝って驕らず負けて悪びれず、苟(いやしく)も不当の事情によって得た有利な立場に拠って勝敗を争うことを潔しとしない、いわゆる『スポーツマンシップ』を修得するものとされている」
「もとより心身未熟な青少年にとって、全体の利益への奉仕のため、完全に自己を抹殺することは容易ではない。ここに忠誠心が必要とされ、転じて運動競技が忠誠心の育成に資するものとされる所以である」
 決して個人の名声のために活躍しようというのではなく、あくまでもチームの利益のため、自身に課せられた役割を忠実に果たす。「その勝敗に懸けられた名誉は、彼等の所属する団体、すなわちクラブ、学校、町、県、国などのそれであり、一人のスミス、一人のジョーンズの栄辱は問題ではないのである」という一文はまさしくその精神を表していて、そして何より格好よく映る。各々が団体のために何ができるかを考え、それを遂行する。主将の才覚を持つ人間は主将としてなすべきことをなし、そうでない一介の人間は、一介の人間としてなすべきことをなす。協調性、ともまた違う気がする。協調性が周囲の人間を慮り協力する力だとすれば、これはどちらかといえば、自分自身をいかに律することができるかであるのだろう。今現在、このようなスポーツマンシップがどれほど浸透しているのかは定かではないが、「チームに貢献する一人である」という自覚は、どの団体に所属していても抱いておきたいものである。
 さて、パリオリンピックにちなんだ話をしようとして、横道に逸れまくってしまった。少しだけ絡めておくと、私はスポーツに打ち込んだことのない一国民として、日々のニュースを見ながら「どうにも無責任に選手に金メダルを求めすぎではないか」と思うこともあった。しかし、もちろんのこと、選手も金メダルが取りたくて当然である。金メダルじゃないことを謝らないでほしいと勝手に思うのも、また選手に対して無責任なのかもしれない。ここで「忠誠心」にまつわる引用をしたことで、ふとそんなことを思った。背負わせる責任もあれば、背負うべき責任もあり、背負いたい責任もあるのだろう、きっと。答えは出ないが、どちらにせよ、できることは応援することくらいなものだ。
 まだまだオリンピックにちなめる気がするので、来月もまだまだその話題になるかもしれない。普段私がアンテナを立てない「スポーツ」の分野なので、なにもかもが新しい刺激で、書きたいことだけが積もっていく。タイトルはそんな気持ちの表れとした。知らない舞台「だからこそ」の方がよかったかもしれない。

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