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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.07.05Vol.27 狩らずに増やす(徳野)

 私が何かしら書き物をする際に「障害者」を「障がい者」と表記し始めたのはここ数年のことである。記憶が定かでないが、行政機関による書類やホームページにおいて「がい」と平仮名で記されているのを目にして、ハンディキャップを持つ人にネガティブな意味合いを与えない配慮をするのが世間の風潮なのだな、と受け取ったのがきっかけだったはずだ。
 しかしながら、直近のnoteでも取り上げた、池田賢市氏の『学校で育むアナキズム』を読んでいて「どきり」とさせられた箇所があった。

 「障害」もその子の「個性」だという言い方をすることで、排除せずどの子の個性も大事にする教育実践をしている、と 誇らしげに語る人もいるが、「障害も個性」という把握でよいのかどうか。「障害」は社会モデルにおいて理解することが、日本も批准している「障害者権利条約」で確認されているように、国際的常識である。つまり、どんな人であろうと、社会生活をしていくうえで困難を感じるような障壁にぶつかる場合、その社会的障壁のことを「障害」と呼び、そのような「障害」に常に出合わざるを得ない人のことを「障害者」と呼ぶのである。

教育学が専門の池田氏が伝えたいのは、「個性」という美名の下で社会が解決するべき諸問題を個人に責任転嫁してはならない、ということだ。バリアフリーやユニバーサルデザインに日頃から触れているにも関わらず、その根本的な部分への無理解を自覚して恥ずかしくなった。去年聴いたCOTEN RADIOの特集でも「障害か否かの線引きは時代と共に変化してきた」、つまり「障害は社会構造の中で形成される」と語られていたではないか。
 では、社会の方に課題がある事実を忘れないよう、私もこれからは「障害者」で統一していきます、となれば結論としては綺麗だ。同時に、そもそも「障がい者」と表記する地方公共団体が出てきた経緯も気になる。内閣が平成22年に実施した議論の記録によると、岩手県に「『害』の字は、『害悪』、『公害』等否定的で負のイメージが強く、別の言葉に見直してほしいとの意見が障害者団体関係者から寄せられたため」とのことで、当事者およびそれに近しい立場からの声を反映した結果だった。(しかしながら、内閣は「障害者権利条約」における定義を踏まえて「害」の使用を継続しており、大半の自治体も人を指す場合のみ平仮名表記するという、いわゆる「間を取った」判断を下している。)自分の身体や精神の状態をどう受け止めるか。当事者だからこそのテーマである。そして、私自身、ハンディキャップを持っている人たちと接した機会はけっして多くない。中学生時代に就労継続支援事業所に職業体験に行ったことはあるが、作業員の方たちと距離を縮め
る勇気を出せなかった。客観的に見れば、無礼を働かずとも相手に対して失礼な態度を示していたと思う。だから、今の私は他者の言葉を通して考え方に触れていくしかない。 
 甲陽学院中学の2005年度の入試過去問は、幼少期に視力を失った三宮麻由子氏によるエッセイを取り上げている。そこでは、ある高校生から「もし、目が見えるようになると言われたら、晴眼者に戻りたいと思いますか」と質問された時のエピソードが綴られている。そして、三宮氏は熟考の末、「見えなくて不便だけれど、これで十分な幸せだって思える人生のほうが、本当の意味で幸せではないかと思うんです」と、その場にいる全員に向けて自らの想いを伝えた。不自由な目は医学的には機能不全とみなされる。だが、当事者にとっては紛れもなく「自分」の一部なのだ。それと共に一生を過ごすのであれば、ポジティブにはならずともネガティブさを和らげた「障がい者」という表現の方がしっくり来る面もあるはずだ。

 そして、ここで改めて結論を出す。現時点で健常者にカテゴライズされる私自身は、やはり「障害者」と表記していくことにする。中学生の頃の経験も踏まえて自分は「社会的障壁」を作り出す側の人間だと感じたからだ。
 しょせん言葉遊びに過ぎないのかもしれない。しかしながら、「ポリティカル・コレクトネス」という概念が一般的になってきた昨今、誰かに不快感を与えないであろうキーワードを軽い気持ちで使う場面も増えてきている。言葉の「背景」への思慮は無いので、詰まるところ、自分とは異なる境遇・立場にある他者を配慮した気になるだけだ。それこそ自己満足に他ならない。だからこそ、使う言葉にこだわる意味がある。

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