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 2か月前に始めた社員のブログ。それには主に2つの目的がありました。1つ目は、単純に文章力を上げること。そして、2つ目が社員それぞれの人となりを感じてとっていただくこと。それらは『志高く』と同様です。これまでXで投稿していたものをHPに掲載することにしました。このタイミングでタイトルを付けることになったこともあり、それにまつわる説明を以下で行ないます。
 先の一文を読み、「行います」ではないのか、となった方もおられるかもしれませんが、「行ないます」も誤りではないのです。それと同様に、「おなじく」にも、「同じく」だけではなく「同く」も無いだろうかと淡い期待を抱いて調べたもののあっさりと打ち砕かれてしまいました。そのようなものが存在すれば韻を踏めることに加えて、字面にも統一感が出るからです。そして決めました。『志同く』とし、「こころざしおなじく」と読んでいただくことを。
 「同じ」という言葉を用いていますが、「まったく同じ」ではありません。むしろ、「まったく同じ」であって欲しくはないのです。航海に例えると、船長である私は、目的地を明確に示さなければなりません。それを踏まえて船員たちはそれぞれの役割を果たすことになるのですが、想定外の事態が発生することがあります。そういうときに、臨機応変に対処できる船員たちであって欲しいというのが私の願いです。それが乗客である生徒や生徒の親御様を目的地まで心地良く運ぶことにつながるからです。『志同く』を通して、彼らが人間的に成長して行ってくれることを期待しています。

2023年12月

2024.11.01Vol.38 自分の形は削らない(徳野)

 先日、新聞からふいに顔を上げた父が「『とうい』の反対が『存在』なの?」と尋ねてきた。しかし、私は「とうい」が何のことか分からなかったので、恥ずかしながら逆に教えてもらう運びとなった。
 漢字に直すと「当為」となる。漢文風にすると「当(まさ)に為すべし」であり、「なすべきこと、あるべきこと」という意味の哲学用語だ。一方で、「存在」はほぼそのまま「あること」なのに加え、「あらざるをえないこと」を指す「自然必然性」の概念も「当為」の対義語である。より分かりやすくまとめると、世の中には「理想主義」対「現実主義」という構造があるということだ。それだけだったら至極当たり前のことを小難しく説明しているだけなのだが、父が興味を持った新聞コラムによると、石破茂首相の政治観を一言で表すと「当為」らしい。例えば、今年の自由民主党総裁選において論点になっていた衆議院解散の時期について、当時の石破氏は「自民党の都合だけで勝手に決めてはいけない。政治情勢をあわせて考えないと『今すぐやります』という話にはならない」と正論を述べながら慎重な姿勢を見せていた。また、「野党との討論を踏まえて国民の皆様に選挙で判断していただくべきだから」というのも理由として挙げていた。その頃は非主流派だからこそ派閥問題で揺れる党に刷新感をもたらすことを期待されていた。ちなみに、対極の「存在」を体現しているのは、今は亡き安倍晋三氏とのことだ。実際の文章を読まずに関西に戻ったものの、その鮮やかな対比関係に思わず唸ってしまった。
 さて、10月1日付で内閣総理大臣に就任した石破氏だが、さっそく「存在」と「自然必然性」に苦しめられているような印象を受ける。求心力の弱さを不安視する声は常に上がっており、長年の悲願を達成したとしても党内融和のために総裁選での主張をひっくり返すような決断をせざるをえない事態を予想していた人は以前からいたはずだ。しかしながら、あまりにもタイミングが早すぎた。それが地位を得ることの条件だったのではないかと疑ってしまうスピード感で解散を決行し、総裁選で(いちおう)争点の1つになっていた政策活動費の扱いについても優柔不断に対応したことは、今回の選挙結果に少なからぬ影響を与えたに違いない。そして何より、「裏切り者」と呼ばれても仕方ないほどの方針転換をしたにも関わらず、組織内での評価が悪化の一途を辿っている現状に哀愁を感じる。ご本人は周囲に「選挙が終わったら自分がやりたいようにする」と漏らしていた、という噂をネットニュースで見かけたが、本心では「変わりたくないのに変わらざるをえない」という心境なのだろうか。
 現首相が直面している苦境に関する報道に触れているうちに、ふと蘇ってきたのが三島由紀夫の代表作『金閣寺』内の一場面だ。主人公である修行僧の溝口とその数少ない友人である柏木が決別する様を描いているのだが、前者は吃音、後者は内反足(足の先天的な形態異常のこと)という風に症状こそ違えど、ふたりとも障害を抱えながら生きてきた大学生である。だが、両者の価値観は真逆と言ってもいい。
溝口は円滑なコミュニケーションが困難なせいで嘲笑を受け続けるうちに、他者、特に異性との接触を恐れる若者に育った。もうひとりの友人である鶴川の健全な心身に憧れつつ、彼の鈍感さ単純さを密かに軽蔑することで精神の安定を保っている節がある。一方で、自分だけの世界に閉じこもりながらも孤独感に苦しみ、誰かに理解してもらいたいという悲痛な願いも根底に抱えている。そんな彼にとって金閣寺は完璧な「美」の具現化であると同時に、醜い自身の劣等感を刺激してくる両面的な存在だった。そして、溝口は次のような結論に至る。「自分を魅了し苦悩させる金閣を燃やすという『行為』によって、これまでの人生から解放されるのではないだろうか」。
 そんな中で、鶴川は恋愛での絶望感をきっかけに自ら命を絶ち、彼の遺書を柏木が溝口に手渡しに来た。溝口の目には鶴川が明朗で前途洋々たる美青年としか映っていなかったため、その唐突な死は動揺をもたらした。そして、衝撃を受けている溝口を前に柏木は口火を切った。

柏木:「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。」
溝口:「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない。」

 現実的には「認識」と「行為」は綺麗な二項対立に落とし込めるようなものではないだろうが、上記のやり取りからは、困難にぶつかった時に「まず自分が変わるか、もしくは他者(そこには人間に限らず、物質や環境も含まれている)を変えようとするか」という命題が浮かび上がってくる。しかしながら、後者の立場を取る溝口が破滅的な末路を辿ったことを考えると、やはり柏木の方に軍配を上げざるをえないだろう。高い知性を持つ柏木は自らのハンディキャップを、他者の同情心を刺激する「道具」として扱い、社会的地位も気位も高い女性を手玉に取ることまでやってのける。女性関係に奔放な分、人脈は広く文化的な素養も持ち合わせており、嫌味に満ちた言動を繰り返しながらも社交的な印象も与える。全く褒められた人物ではないのだが、身近な人間を冷静に観察し、何より自分自身のコンプレックスに対する捉え方を転換させることで生き方を確立してきた。だから、自分と似た境遇の溝口に鶴川の実情を知らせることを通して「視野を広げて自己憐憫をやめろ」と真剣に諭したのだ。だが、柏木の大上段に構えたような物言いは反発心を招き、溝口の凶行を止めるには至らなかったのだが。
 「自分らしさ」と「集団・社会の論理」の間で葛藤する時、泣いたり暴れたりするなどの破壊的な「行為」によって都合の良い状況を作り出そうとする子どもは少なくないが、年齢を重ねるにつれ通用しなくなることを本人も学んでいく。そして、ある程度成熟してくると、今度は組織に迎合するか否かの選択を己に迫るようになり、集団内の常識と足並みを揃えようとすることを「認識」の変化とみなすこともできるかもしれない。ただ、石破首相の現状を見るに、周囲に合わせて行動するだけで事が必ず上手く運ぶわけではない。まず必要なのは、今の自分を悩ませている「思い込み」に気づくことではないだろうか。それは、『金閣寺』の柏木にとっての「内反足があっては女性と交流できない」という諦念であり、石破氏にとっての「自分自身の方針では自民党に十分な利益をもたらせない」という自虐感情である。しかしながら、その時々の情勢や周囲にいる人々の心情を分析してみる中で、負の要素だとばかり思っていた自分の特性を「武器」にする可能性を発見することもあるのだ。それこそが、本当の意味で「認識」が世界を変貌させる瞬間なのだろう。

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